あばれはちまん 奇蹟なんてどこにでもあるのに
町田公二郎と京都郡刈田町、言葉が手足を伸ばすことについて
2012-05-05 Sat 23:06
福岡県に京都郡刈田町幸町という場所があって、そこに郵便を送ることになったんです。郵便番号を調べたんですが、昔は郵便番号が記してある辞典ほどの分厚い冊子を繰って調べたものなんですが、便利世の中になったもんですね。インターネットで簡単に調べることができるんです。地名の読み仮名を入力して調べるんですが、そこで意外なことが起きたんですよ。僕は福岡県以下を

「きょうとぐん かりたちょう ゆきまち」と読むとしたんですがそれは誤りで、本当は
「みやこぐん かんだまち さいわいまち」と読むそうなんですよ。「ふくおかけん」だけは読めて、あとのヤツはまさかの三連敗だったんです。

思えば「きょうとぐん」の時点でうっすら怪しいとは思ったんですよね。県名の後に府名が連続して良いものかしら?昔、バイト先に工藤さんという可愛らしいメガネッ娘がいたんです。どんな女性であれ2秒で好きになる程に若いあの青葉の頃ですから当然恋なんかを、こう、したんですよね。でも名前がわからなかったんです。「名前なんて気軽に聞けばいいじゃない?」などとあなたがたはおっしゃるのでしょうが、あなたがたは何もわかっていない。「わからないから面白い」のです。下着姿や真っ裸に価値があるのは「見えないから」なんですね。それと同じでわからない方が面白い。彼女の好きな野球選手は広島東洋カープの町田だったんですが、そんな深度まで達していながら名前がわからない。そこで名前を考えたんですよ。こうして文章に起こしてみると僕は立派な変態なんですが、彼女の名前をあれこれ考えたんです。その中で「橘(たちばな)」てのを思いついたんですね。なんかカッコイイじゃないですか?「工藤 橘」。名字が連続する様にうっとりしちゃうじゃないですか?そんな甘酸っぱい昔の思い出をフッと思い起こさせるような県名府名の連続に、いや、やっぱこれは違うんじゃねぇのと、うっすらとは感じたんですよね。

まぁ工藤さんの件りは読んで頂かなくて結構なんですが、なぜ言葉には幾通りもの読み方があるのか?考えたんです。
「京都」の「京」ひとつとっても「みやこ」「けい」「きょう」と読みますし、「幸」なんて大変ですよ、読み方がわんさかある、何故なのか?

ゴールデンウィークという真空を自宅で為す術無く過ごしていましたら、テレビで衝撃映像スペシャルみたいなのが流れてたんですね。遠雷を寝床で聞くような気持ちでテレビを眺めていましたら、酔っ払った黒人の双子の兄弟が警官をボコボコに殴っている動画がぶん流れてたんです。その黒人の双子ってのがマッドマックスに出てくる悪役みたいで、地球の文明を解せない火星人でも一発であぁこいつらは悪い輩だ、アークエネミーだとわかるほどの悪役っぷりで、そのまんま感丸出しだったんです。

言葉に幾通りの読み方があるのは「いつかわかり合うために言葉が手を伸ばした証拠」だと思うんですよ。
わかり合いたいと伝えたつもりが実は相手のココロに届かなかった。そこで伝えの手段であった言葉は届かなかった距離を補完するように必死に手足を伸ばし、読み方を変えてどうにかこうにか相手に届こうとした、その結果言葉には幾通りの読み方が残ったと思うんです。あと少しで届く対象に対して僕らが必死に手足を捻って、知恵を巡らしどうにかこうにかやってやるように、言葉は己を変じた。
あの時伝えきれなかった事を今度はきっと伝える為に言葉はカタチを変える。「みやこ」で通じなかったから「きょうと」になった。そう思うんです。

もしそうだとしたら、僕と、あの衝撃映像の黒人兄弟がわかり合えるようになるとして、そこにどんな言葉があるのだろう?あのボストロール達と僕は、言葉をもってわかり合えるのかな?今は伝えられない言葉は、本当にカタチにを変えて伝わっていくのかな?それを安易に肯定は出来ないけれど、その可能性を全く否定できないトコロに言葉が手足を伸ばし読み方を変える証拠を見た気がして。あぁ工藤さん、元気にしてっかな?(未だに本当に名前はわからない)
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スペースカウボーイ
2012-03-21 Wed 22:15
リュックサック
最近、リョックサックを買ったんです。で、気になるコトがあったんですね。

リュックサックb
気になるのはでっかいファスナーじゃなくって。この、縦に2本の切れ込みが入っている縫い付けられた小さな布。これって僕が買ったヤツ固有のデザインなのかと思ったんですが、道行く人々のリュックサックを見たところ同じヤツが付いてるんです。どうやらリュックサックに一般的に装備されるモノらしいんですが、どういう風に使うのか?よくわからない。で、PCで検索しようとしたんですが、止めたんですよね。僕はそれについて一切調べなかったんです。

冷蔵庫の中に入っている食材を入力すると、その材料で作ることができる料理を表示するという携帯のアプリがあるそうなんですね。便利な世の中になりました。作りたい料理に合わせて食材を買うんじゃなくって、今、家にある食材で作ることが出来る料理を教えてくれるそうなんです。ほら、僕って最近料理料理言ってるじゃないですか?昨日もNHKの料理番組を観てたんです。レモンクッキーなるスイーツの作り方が紹介されてたんですが。番組のアシスタントが中年の男性アナウンサーだったんですね。僕はその風景を、中年男性がレモンクッキーをオーブンから出すタイミングを熱っぽく復唱する様を見て、「スペースカウボーイ」という九文字がふっと脳裏に浮かんだんですよ。それ位料理に興味があるんですが、僕はそのアプリを手に入れることは無かったんです。

「つまらない正解しか手に入らないだろう」そう思ったんです。
リュックサックの布の小片について調べなかったのは、たとえ調べたとしてもどうせ「2本の切れ込みに紐を通して、タオル等を引っ掛けて使う」程度のモノトーンな正解しか得られないと思ったんです。アプリを手に入れなかったのは、例えば冷蔵庫にハムと卵があったとして、アプリが指し示す未来は「ハムエッグ」程度の、昨日と同じ明日を巡る何ら抑揚が無い白のスポーツブラだと思ったからなんですね。

これからのコンピューターに求められる機能は「ちょっとだけウソをつく機能」だと思うんですよ。
与えられた問題に唯々諾々とつまらない正解を返すだけじゃなく、たまに、ちょっとだけウソをついてみる機能。例えばリュックサックの小布について調べたとして、「布の裏には"寄り切り"や"上手投げ"といった相撲の決まり手が印刷されていてコアなリュックサッカー間で密かに取引されている。レアな決まり手、例えば"小手ひねり"あたりがしるされた小布は莫大な金額で取引される。みたいなwikiに行き着いてみたり。例えばアプリに「ハムと卵」を入力したとして、アプリの答えが「・・・プリウス(エコカー)」だったりする極彩色の未来。

それらのウソは勿論ただ垂れ流しされるものではなくって、もしかしたら悪ふざけのウソと真実が結節される未来が来るのかもしれない、バックトゥーザフューチャーという映画で過去と未来を行き来するデロリアン号というクルマの燃料は「バナナの皮」でした。それと同じで、未来のクルマはハムと卵で出来るのかも知れない。もう、今の普通の延長に未来は来ないと思うんですよ。突き抜けた一見意味を為さない飛躍が要ると思うんです。その為にコンピューターはモノトーンの延長線にしか拠れない愚かな僕らに対して、ちょっとウソをついてやる必要がある。そう考えるんですよね。

そういう見地からいって、僕のリュックサックの小布の裏には実は「ずぶねり」なんぞのレアな決まり手が書いてありそうな気がして。8千円位?
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大人のチカラ
2012-03-06 Tue 22:22
担当しているお客さんのところで不幸があり、お通夜に参列してきたんです。享年九十余歳、大往生を遂げられたということからか、その日のお通夜は本来のしめやかさの中に幾分かの「温み」がありました。その死を只ひたすら悼み悲しむのではない、九十年以上成し遂げられた故人の生を偲び尊ぶような雰囲気に満ちているようでした。そんな会場の雰囲気にかまけて僕も、不謹慎なことではありましたがたいした緊張感を帯びるでもなくぼんやりとして焼香をする人々を眺めていたんです。

焼香をする人はまず故人の遺影に一礼し、遺族の方々に一礼、焼香をすませ再度遺影に一礼、振り返って他の参列者に一礼する。正式の手順は別にありそうなんですが概ねそんな感じでみんな焼香を済ませていくんですね。一礼をしていく集団を見て僕は

「お辞儀ってのは大人のものだ」

と、つくづく思ったんですね。子供より大人、それも高齢であればあるほどピシッと腰の入った、まるでお手本のようなお辞儀をしていく。大人のマナー講座みたいなヤツを新人の頃受けた覚えがあるんです。「お辞儀の角度は何十度」みたいなハナシを講師から教えられたんですが。そんなモノは見せ掛けの生兵法だと確信できる、本当のお辞儀ってのがあるのなら、眼前の大人が行っているそれがそうなんだろう。お通夜には中学生位の子供達も参列していて彼らも回りの大人に倣ってお辞儀をしていくんですが、首がグラグラと座っていないようでおよそお辞儀であるとはいえない。お辞儀ってのは大人のものなんだと、歳を経ないと身に付かないものなんだろうと思ったんです。

先日、友人と飲みにいったんですね。学生時分からですからもう20年くらいの付き合いになる彼らと、会えばいろんな事について語りあうんですが。今回はチト違う、何やら親の介護やら、子供の教育やら。いつもの、田んぼでサッカーをしていた彼らはいつのまにか、顔に以前より少し影の部分を多く作り年相応の悩みをぽつりぽつり話すようになった。

大人になるって、つまり積み重なっていくことなんだと思うんですね。
時間が、経験が、苦労が、幸せが

ああ、お辞儀だけじゃないな、お辞儀だけじゃない。
歳を経て重なった深みや落ち着きが日常の何気ない所作にフッと顕れる。それはお辞儀の時であったり、親の介護について話す時であったり。
大人の力ってのは積み重なって結実してくもんなんだな、と思ったんですね。

子供の教育について悩む彼が僕に尋ねます。「ポルセは最近どうなのよ?」
で、僕の最近ってのが




nanoblock.jpg
これなんですが。nanoblock(ナノブロック)というレゴの小っさい版みたいなヤツがあって、最近これにはまってるんですが、なんていうのかしら?ちょっと、僕だけ積み重なってないなと思ったんですね。小さいブロックがオウムやキリンのカタチに積み重なっただけで。なんか、深みというか落ち着きというか、そこらへんが欠けているような気が・・・。

あの夜のお通夜で一礼を重ねた僕は、あの大人達の立派なお辞儀とまではいかなくっても、そこそこのお辞儀は出来ているハズだと思っていたんですね。それがどうでしょう、僕のお辞儀はあのキッズ達と何ら変わらない、首グッラグラのヘナチョコションベンだったのかと思うと、ちょっと泣きそうにになるんですよね。
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secret secret
2012-02-28 Tue 22:09
どうでしょうみなさん。「秘密」って、抱えていますか?人に言えない秘密。自分しか知らない秘密。
秘密を抱えることは楽しいものではなくって。「王様の耳はロバの耳」の寓話における主人公のように、秘密を抱える個人は秘密に苛まれることになるんです。また、秘密の何が怖いって、例えば、王様の耳がロバの耳だったような特別な事実のみならず、この世のどんな事象も「秘密」という状態になりうる、ことだと思うんです。公明正大、裏表なく正直に生きていたとしても、秘密は秘密の面を隠して忍び寄る。何でもないコトが突然と秘密に変化しうるんですよね。

先日、満を持して携帯をスマートフォンに変えたんです。
会社の女性が見せて見せてとやってきたんですね。彼女もスマートフォンに替えようかしらと考えているらしい。
彼女のスマートフォンに求める機能ってのがカメラに関する機能らしい。いかに綺麗な写真が写せるか?撮影した画像を修正・加工する機能に優れていることが決め手らしいんです。で、ポルセさんの携帯で写した写真を見せてよ、といった具合のハナシになったんです。

彼女が拝もうとしていた、僕が唯一写していた写真ってのが

akaimanjyu.jpg


これだったんですね。「紅白まんじゅうの紅い方のでかいバージョンと、カバレロ」
このでかい饅頭は山鹿のある饅頭屋で主人からおまけで貰ったヤツで。その饅頭屋の主人ってのが、言動がいちいちネガティブなんですね。そんなネガティブな思考の深淵にありながら何故か僕に底抜けに間の抜けた紅いまんじゅうを放った。そのコントラストがまるで異邦人を読んでいるようで僕は人を殺しそうになった、みたいな記事を書かんが為に撮っておいた写真なんですが、この写真を見られたとして、一体どこから説明すればいいのか?みんなのゴルフあたりから説明すればいいのか?社内では、僕的には西島秀俊で通している僕がですよ、なんなんですか?これは?ご自慢の8メガピクセルで撮ったのが、これですか?

この写真を、見られては、ならない

ここにおいて、でかいだけの只の紅いまんじゅうは「秘密」にドラスティックに変化したんですよ。

この前の日曜日に、自宅近くの温泉に行ったんです。その温泉にはサウナがあるんですね。夕方のことでしたからサウナ備え付けのテレビでは笑点が流れてたんです。他のお客達と大喜利を、どこか遠くで鳴っている雷の音を聞くように意識の向うで眺めていたんですが。

林家木久扇が片岡千恵蔵のものまねを始めたんですね。遠くで鳴っているとばかり思っていた雷は、いつのまにか目の前に。僕は彼の片岡千恵蔵の真似ってのが、ちょっとツボなんですよね。思わず笑ってしまいそうになるんです。元々笑うという行為に関して僕のハードルはごく低いんですね。女子高生みたいにすぐケラケラと笑ってしまうんです。でも、木久扇の片岡千恵蔵のものまねって、まぁ面白くはないんですね。以前、髭男爵のコントを観て大笑いしていたら後輩から咎められたことがあって。もっと年相応のハードルを備えなさいよと言われ、大いに反省したことがあるんですがあの時の決意はどこへやら、静まり返っているサウナの中で木久扇の片岡千恵蔵と僕の、プスンプスンという押し殺した笑い声が螺旋を描く。

僕が笑っていることを、まわりのオッサン達に、知られてはならない

もはやハードルでさえない木久扇のものまねで犯された僕は汗ひとつかかぬままサウナを後にしたんですね。あのような辱めがあってはならない。

サウナにおいて木久扇のものまねで笑う僕は、それ全体が「秘密」に変化したんです。

イヴがエデンの園で蛇にそそのかされ善悪と知識の木の実を食べた時から人間は秘密というものの存在を認識し、秘密が暴かれるのを厭うようになった。秘密というのは生きる人の影の部分そのものであり、その時間が長ければ長いほど、その存在が大きければ大きいほど秘密も増えるんだと思うんです。秘密はどこにでもある。人が秘密を抱くんじゃなくって、秘密が人を作るんだ。

そう考えてみれば秘密を抱くことができるってのは、人間の定義であるような気がして。もしそうだとしたら紅いまんじゅうの写真とサウナ内での木久扇のものまねが僕の定義だとしたら、それはそれでイヤだなと思うんですよね。
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大さじのこと
2012-02-08 Wed 22:20
今、僕の中で料理が熱いんですね。真面目に取り組みたいと考えているんです。僕もいつかはあんな、エロ本が死ぬの生きるの空を飛ぶなどといった目腐れ記事など書くのを止めてもっと素敵で有益な料理の記事なんかを、こう、作った料理の写真と共にアップしたりしてみたいと考える。僕がブログにアップした最新の写真って「す」ですからね。こんな、どうしようもない便所の向うから僕を救ってくれるのは料理なんじゃないのか?なんて、わりと真面目に考えているんです。

勿論具体的な目標もありまして。とりあえず31種類の料理を作れるようになりたいと思っているんです。一日一種食べたとして一か月分ですね。その料理ってのも例えば「卵焼き」などといった、卵のなんたるかを知らない火星人でもどうにか作れそうな簡単なヤツじゃなくって。"ボルシチ"クラスの手の込んでいそうな響きを持った、他人様の耳目を集める31種類でなくてはならないと思っているんです。取りあえずひとつは作れますからあと30種類。この31種類のレシピを手に入れることで僕は変われそうな気がするんですよ。小分けにされたこの世のドラゴンボールを探す旅が静かに始まりました。

例えばペペロンチーノを食べるにしても、今まではコンビニの弁当コーナーで出来あいのヤツを買ってたんですが、実社会の孫悟空はちょっと違います。ちゃんとしたペペロンチーノ・ソース(アーリオ・オーリオなんとかって書いてあるような)を買って、それをパスタ麺を混ぜて食べる、まぁこれも出来あいのヤツと大きな差は無いと言われればそうなんですが。僕にとっては偉大な進化、なんですね。

で、そのご自慢のペペロンチーノ・ソースなんですが、裏に使用方法が記してあって「パスタニ人前につき大さじ3杯が適量」としてあるんです。僕は大さじ1.5杯を麺上に放るんですが、あまり美味しくないんですね。どうにも味が薄い。原因はわかっていて、僕が使った大さじって、実は只の大きめの素さじで、計量用のモノではないんですね。彼が求める量に対して素さじでは幾分不足するんでしょう。これは買うしかない、僕の明るい未来には計量用の大さじが必要だと思ったんですね。

僕がこの手の生活用品を買うお店は決まっていて、どこにでもあるような、商品がそこかしこに並べられたよくあるディスカウントショップなんですが。商品の配置が雑然という状態を超えた霊的な配置といいますか、商品そのものより配置にこそ意味があるんじゃないかと考えてしまうようなお店なんですよ。例えば電化製品コーナーの真っ只中に目立たぬように置かれた粉末のポカリスエットは店の商品ラインアップの潤沢さをさりげなく主張しているようで、その粉ポカリには清楚な女性とすれ違う際の主張しない微かな香りと同じモノを感じますし。例えば飲み物コーナーの間に置かれた米びつに変なお虫が発生するのを防ぐ防虫剤みたいなヤツには漲る父性、いきなり怒鳴り始める中年男性と同じモノを感じてしまうんです。

そんなlimboで僕は大さじを探したんですね。上記のような商品配置です、鍋やら茶碗やらが並べられたセクションに安穏と置かれていると考えるのは間違いで、お店の端から端まで見て回る必要がある。僕は探したんですね。あのドラゴンレーダーを。

で、なかったんですね。あの女性用下着の裏にもあのモンキーレンチのとなりにも、大さじはなかったんです。
そして、置いてないことで、配置されていないことで僕は大さじを手に入れることができたんです。

最初の大さじについて考えてみましょうよ。そこに至るに様々な議論と思考錯誤、たくさんの人々の思いや願いを経て大さじは大さじであると認知されるようになった。大さじには大さじに至る過程があったんですね。でも、僕は大した過程も経ず大さじを手に入れようとした。大さじを得るにそうでなくてもいいんですね。得るに過程があって良い。失敗と誤解と成功があってよい。そう、僕の大さじはあの大さじと同じでなくても良い、僕には僕の過程があっていつか大さじを手に入れるんだと、あの店は大さじを配置しないことで、僕に店を2周させてなお売らないことで僕に教えてくれたんだと思うんです。

君には君の大さじがある
僕には僕の大さじがある

胸の奥が何やら温かくなるのを感じて、僕のペペロンチーノの味が安定するのは暫く先になりそうです。
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