あばれはちまん 奇蹟なんてどこにでもあるのに
チン毛のこと、世界の終わりについて
2009-11-21 Sat 22:42
親しい同僚のチン毛が燃やされてしまったらしい。

序として考えられる文字の組み合わせの中でも酷い部類に入るんだと思うんですが、神様はどんなクズにも奇跡という手段を使って救いの手を差し伸べると思うんです。例えば今回の序も川端康成の名作「雪国」の序とリズム的に似通っているあたりの奇跡がきっと施されていると思うんですよね。

親しい同僚のチン毛が燃やされてしまったらしい。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。


あ、全然似通っていない。奇跡が施されていない。

まぁ、神の不在をサラっと証明してみて、とにかく親しくしている同僚のチン毛が燃やされてしまったらしいんです。

どこぞの元気の良い娘っこが多数在籍するお店に行き侍り彼のチン毛は、そんなサービスがあるんですかね?1,500円くらいかな?とにかくこう、ボウっと燃えてしまったらしいんですよ。ここで問題なのは「〜らしい」という表現でつまり、僕は彼のチン毛が燃えてしまうのを直接直視したのではなく、彼のチン毛が燃えてしまった事実はあくまで第三者から間接的にもたらされたものなんですね。本当かどうか?本人に確認したわけではない。

みなさんどうでしょう?親しい人の陰毛が燃えてしまったか否か?直接確かめる術を常日頃から用意できているでしょうか?

これ、訊けるか?ってハナシなんですよ。「ねぇ、燃やされたんだって?チン毛?」て、どんな顔して訊けばいいのか?少なくとも僕には出来ない、もうあの頃みたいに笑えない。だって、チン毛ですよ、チン毛。チン毛が、あのミネストローネが燃やされたんですよ。軽々しく扱うことができようハズがない。

ここはじっくり待つ必要があると思ったんですね。彼が自ずから僕に、チン毛が燃えてしまったことを告白する日がやってくるのを。

彼とはチン毛以外のことでは従前同じく、よくハナシをしました。仕事上の愚痴を言い合ったり。おいしいパスタ屋さんの情報を交換したり。
でも、待てど暮らせどチン毛についての独白がひり出されることはなかったんですよね。

チン毛 チン毛 チン毛

人間を終らせるものはなんだと思いますか?

僕は、それは「知的意欲の低下」だと思うんです。知ろうとする意欲の低下、知らしめようとする意欲の低下。知ろうとしなくなって、教えようとしなくなって人間は人間であることを止め、やがて死んでしまう。

彼は僕に、己がチン毛についての事実一切を知らしめることはなかった
僕は彼のチン毛が燃やされてしまった事実を知ることができないでいた

今回のこれがチン毛ではなくって例えばリーマン予想あたりであれば、誰かいつかきっとその謎を解き明かしれくれる

ただしそれがチン毛であれば、いや、チン毛であるから人はそれに見向きもしない、チン毛だからいいや、と。知的な意欲がチン毛であるが故に無くなってしまう。チン毛を取り巻く人間全てがチン毛であるが故、チン毛である事実もろとも諦めてしまう。

彼のチン毛は燃やされてしまったか否か?
もしそうだとすれば何故彼のチン毛は燃やされなければならなかったのか?
よくよく考えてみれば、どうでもよかったんですね。たかが他人のチン毛です。燃えていようが燃えていまいが、知る必要なんてない。

世界の終わりの日の天気は、きっと「雨」なんだと僕は思うんです。
全てを諦めさせる為に、全ての生きる熱意を冷ます為にきっと雨が降ると思うんです。

人は、考える対象の中心にあることはもとより、その外縁の一点に"チン毛"がありさえれば考えることを止めてしまう。チン毛とはつまり、この世の終りに人々の痛みを和らげるモルヒネの役割を果たす、麻薬のようなモノなんだと思うんです。知ろうとして、教えようとして、生きようとしてもう僕らは苦しむ必要がない。そこにチン毛があれば、もう考えなくっていいんだ。あれだけ僕を悩ませた疑問も、心を削って考えた問題も、もうどうだっていいんだ、だってチン毛がついてるぜ、といった具合に、チン毛が着きさえすれば、もうどうでもよくなる。すべての事象はチン毛をもって意味をなさなくなる。朧にそんなことを考えるんです。

人の考える、或いは知らしめる欲望を減じさせる癒しの雨とはつまり、チン毛のようなカタチをしているんだと思うんですよね。
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人皆すべて梨を目指す
2009-11-15 Sun 19:39
いきなりでなんなんですけど、梨。梨ほど、梨ほど人間に受け入れられ易い自然はないんじゃなかろうかと思うんですよ。さっき梨を食っててしみじみ思ったんですけどね。

人の為に準備された自然ってのがあって。それには水があって、空気があって。その次は梨じゃなかろうかと思うんです。ここで、ツタヤでちあきなおみといきものがかりのCDが並べて置かれていたとしていきものがかりを手に取っちゃうようなキッズは「梨より太陽光なんじゃね?」あたりの、ムワッとした夏草のやうな返答をするんじゃないかと思うんですが、ホント、昭和からやり直して欲しい。秋田へ帰る汽車賃があればひと月生きられるという歌詞の意味を噛み締めて欲しい。太陽光を嫌う人がたまに紹介されるじゃないですか?世界まる見えあたりで。でも、梨を嫌う人間ってのはついぞ紹介されていない。そう、「世界に梨が嫌いなヒューマンビーングは存在しない」んですね。

先日、銀行に行ったんですよ。
ちょっとした手違いで僕の、光り輝く五千円を彼方の口座に振り込むというある種ロッキード的な手続きは停止したんです。振込み用紙の記入を僕が間違えたのが原因だったんですが。その際、僕が窓口の女性(ハル・ベリー似)に発したコトバが「あ、失礼!」だったんですよね。

あ、失礼!

ストリート育ちの悪戯っ子 俺をやっつけるのは簡単じゃないぜ 何か食う物を恵んでくれよ 生きているうちにはきっと返すからさ
を地で行く汲み取り便所育ちの僕がですよ、咄嗟に発した言葉がイギリス紳士ばりのexuse me,pardonですよ。なんていうのかしら?お母さん僕はここまで来ました的な、社会性への一里塚に達した気がしたんですね。

自分が間違っていた時には、相手に失礼したと謝ること

僕らが身につける礼儀や教養や、着けるべきネクタイの柄や、左方優先の交通ルールやら、箸の使い方やらは全て「社会に受け入れられたい」と願うからじゃないですか?もっと遡れば"あかさたな"や"1+1"を学ぶ理由も「人間社会に受け入れられるため」だと思うんですね。

僕らが教育され、いつしか自ずから得ようと願った社会性とは、つまりは梨を目指す道なんじゃなかろうか?

そう考えるんです。
僕らはテストで赤点をとって親に叱られ、紺のスーツに白の靴下を穿いて馬鹿にされ、危険をかえりみず死地に飛び込み、順番に並んでラーメンを食べる

すべて梨になろうとする過程だと思うんですね。
だとしたら、僕らはもっと気楽でいい、イージーで良いと思うんです。
どんだけ頑張っても、行き着く先、最高到達点は「梨」なんだから。
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ジギー10
2009-11-08 Sun 20:31
人間社会に天使や悪魔がいるとして、それはきっと文字や言葉の体を為しているんだとジギーは考えている。ファンタジーの世界で描かれるそれらのように羽根が生えたり、尻尾の先が尖っているものではなく、読み聞きする人間に捉えられ、彼によって属性が決められる言葉こそが天使や悪魔なのだと考えている。ただし例えばナイフで人を殺した殺人犯に、「ナイフを振り上げろ」という言葉が囁かれていたとしてその言葉が"悪魔である"とするのは愚者の行う責任転嫁の一種であると考える。言葉の体を為している天使や悪魔はもっと、それがそうだとはわかりにくいカタチで実社会に顕れるのだと考えている。

歩道沿いのバス停にある古びたベンチに腰掛け、ジギーは行き交う人々のことをぼんやりと眺めていた。初冬の風がビルの合間を抜け、歩道に積もった枯葉を吹き散らす。枯葉は一度ふわりと舞い上がり、ゆらゆらと揺れながら、元居た歩道に落ちていく。再び落ちた枯葉は歩道のタイル模様と相俟ってまるで意味を有しそうな、それは魚のような、聖者のような、見る人に拠ってさも意味有り気な模様を構成していく。眼前を歩む人々、路面に描かれた、後付にきっと意味を有するであろう模様。ジギーは目を閉じて、そのいずれからも離れたいと願った。

力無くベンチに座り込むジギーの脳裡に、歩道に枯れ葉がゆらゆらと落ちるように、ある言葉が揺れ落ちてきた。
"宋ボベと渡辺篤史は似ている"

ジギーは慄然とした。何が起きているのか?理解できなかった。
大きくブレスして、落ちてきた言葉を心の中で反芻する"宋ボベと渡辺篤史は似ている"
ジギーはもう一度大きく深呼吸して話し掛ける。「落ち着いて、ジギー。確かにジギーが唱える"似ている"シリーズは誰にも理解されないものが多いよね。でも、今回のこれは、ダメさ。だって、絶対に、絶対に似ていない、ミス・ユニバースと烏龍茶が似ているとするようなものさ。誰もそうだと思わないよ」誰にも賛同されないであろう"宋ボベと渡辺篤史は似ている"の言葉を抱いてジギーは、為す術無くベンチから立ち上がれずにいた。

ジギーの前を、顔を失くしてしまったかのような大勢の人々が行進を続ける。
唾棄すべき、しかし拠るべき日常が行進している。
ジギーの心の奥底に確かにある"宋ボベと渡辺篤史は似ている"の、言葉。

縦横に線を引かれただけの歩道と枯れ落ちた葉とで構成された無意味な模様は、やがて、本当に意味を帯びて、それに気付いた人を祝福するかもしれないし、呪うのかもしれない。つまり天使や悪魔とはそのような、意味を為さない文字の連続から始まるんだ。

再び社会に還る為に、多くを愛する為には一度遠くそれら全てから遠く離れなければならないんだ。
誰からも見放されて、独りにならなければならないんだ。星が美しく光って見えるのは遠く離れて眺めるからなんだ。誰をも捉えなかった"宋ボベと渡辺篤史は似ている"という言葉で僕は一度社会から、集団から日常から未来から凡庸から世界から大きく離れて、そしてそれらを遠くから、そこに戻るために強く愛さなけらばならないんだ。

ジギーはベンチからしっかりと、立ち上がった。
行くべき方向へ踵を返し、その先を睨みつける。

己の中の"宋ボベと渡辺篤史は似ている"という言葉が、暖かいぬくもりを帯びていくのをジギーは感じていた。
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砲丸少女
2009-10-12 Mon 20:51
僕は生きていく上で出来るだけ他人を傷つけたくなくって。そのようなムワっとした、牛の精液のような青臭い成分で僕は出来ているんですが。最近、また人を傷つけてしまいそうな場面に遭遇したんです。

県民運動公園という譲二の遺産でトボトボ走っていましたら、何やら競技をする一団と遭遇したんです。彼らは砲丸を放っていたんですね。そこまでは何ら驚くことはない。なんせ僕は砲丸投げに対して非常にオープンなんですね。熊本県の県木は銀杏、県の鳥は雲雀なんですが、県ポ(県のスポーツの略)は「砲丸投げ」で良いと僕は常々思っているんですね。まぁ嘘ですけどね。で、今回砲丸を放っていたのは女子高生だったんです。

僕は、砲丸投げを選択した彼女達に、何故貴女は砲丸投げを選択したのか?何故砲丸でなければならなかったのか?彼女たちを傷つけないで問うスキルを持ち合わせていない

んですね。何故砲丸投げでなければならなかったのか?問う機会があったとして彼女達を傷つけないで問う話法に関して適当なモノを全く考えつかなかったんですね。若い身空です。いろいろ選択出来たと思うんですよ。短距離走とか油絵とか縦笛とか。数多の選択肢の中からあえての砲丸投げ。おそらく尊大で荘厳な理由があるんでしょうがそれについての彼女の由を問うに当たって軽々しく事に及んではならない。なんせ彼女達のココロはガラス細工。社会人として、いや人間として僕が得てきた人当たりの滑らかさ全てをぶつけても「どう?砲丸?」とにこやかに、なんならカツ丼片手に語り掛ける位しか考え付かないんですね。

また人を傷つけてしまう可能性が僕にあることに戦慄しながら更にトボトボと走っていましたら、今度は芝生の広場で楽しげにゴムのボールでキャッチボールに興じるカップルを見掛けたんです。年の頃はちょうど砲丸少女と同じ位。青い空に蛍光色のボールが映えて、眩暈がしそうです。

ガリレオ・ガリレイがピサの斜塔から大小二つの鉄球を落下させ、物体が自由落下する時間は物体の質量に関係なく同じであると証明したのは事実ではないらしいんですね。弟子の創作らしいんです。

誰か、この腐れブログを見ている人の中で誰か、もしも、もしも砲丸少女と話す機会がある人がいるとすれば、どうか彼女に伝えてはくれないでしょうか?僕が、物理の法則に新しい法則を加えて欲しいと願っていたことを。

あの日白いワンピースの彼女が放ったゴムボールと、砲丸少女が放った砲丸は、同じ質量であったと。
白いワンピースの彼女が放った9メートルは、砲丸少女が放った6メートルと同じ距離であったと。

早く大人になりたい彼女と
一途に砲丸でなければならなかった彼女

白く青に映え、放物線の黄色と
白く同じく青に映え、但し鈍色でなければならなかった彼女

貴女と白いワンピースの彼女は価値を同じくしていたと、砲丸少女に伝えてはくれないでしょうか?
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君はもっとヤクルトでいい
2009-10-06 Tue 21:32
〜画家にとって最も不幸なことは、描く対象を木枠で限らなければならないことだ〜
フィンセント・ファン・ゴッホ


クルマで道路を走っていましたら警察官から路肩に誘導されまして。何だろうねと思いクルマを停めたところ丁度その日は"交通事故ゼロを目指す日"らしくって。地元の中学生達ですかね?体操服を着た蒼い彼らは道行くドライバー達に交通安全と事故防止に努めて下さいというメッセージとともにヤクルトを配ってたんです。

順番待ちして僕も女子中学生からヤクルトを頂戴したんです。
で、道すがら、ヤクルトをあおりつつ僕は考えたんですね。いつか世界に交通通事故無き日がやって来ることをみんなで願ったあの快晴の日の午後に。

一体どこからどこまでがヤクルトなのか?
まぁ、僕が考えたってのはこれなんですが。ヤクルトの範囲について。

もうね、一体全体どこからがヤクルトなのかってハナシなんですよ。
あのプラスチック容器に入れられた甘酸っぱい本体だけで"ヤクルト"なのか?本当にそれでいいのか?そう考えたんですね。

文頭ゴッホの、あの名言。というかあの名言ってのは僕がさっき便所で考え付いたヤツで、ゴッホどころか全ての画家に全く関係ないんですけど。画家にとって最も不幸なことは、描く対象を木枠で囲わなくてはならないことなんですね。どこまでも広がる世界を描きたいのに、いつかどこかで限らなければならない。絵を描く難しさはそこにあるのでしょうし、だからこそ画家は絵を描くのでしょう。

それと同じで、ヤクルトを容器に入った液体だけであるとして終らせて良いのか?
限るべき境はプラスチックの殻であるとして、それは言い様の無い不幸を内包しているんじゃないのか?僕はそう考えたんですよ。

もっと、彼女達からヤクルトでいい
体操服を着てヤクルトを持った彼女達自身から既にヤクルトはヤクルトであっていい
そう考えたんです。

もう意味の無いプラスチックの殻で世界を限るのは止めよう
ヤクルトを持った貴女はもうヤクルトだ、そして、いつか、やがて、僕もヤクルトだ
もっと君はヤクルトであってよい、そして僕もヤクルトであってよい

そんなことを考えたんです。理由なんてないですけど。
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