あばれはちまん 奇蹟なんてどこにでもあるのに
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タッチパネルでお肉を頼むということ
2013-08-17 Sat 02:43
先日のこと。クルマで道路を走っていましたら、路傍に焼肉屋さんの看板が立っていたんです。最近オープンしたのかしら?まだ真新しいその看板にはなんとも食欲をそそる焼けた肉とともに、白い、これまた生命力溢れるポップで「タッチパネルでお肉が頼める!」と、記してあったんです。

月末の繁忙時ではあったのですが、僕は北バイパスを西原交差点方面に進めていた社用車をするするとアネモネの花咲く中央緑地帯に寄せ、まぁ僕はアネモネの花を見たことはないのですが何となくわかる時ってあるじゃないですか?ああ、これがあの花なのですね?みたいな、いわゆる奇跡が起こる瞬間ですね、まぁ実際はアネモネとは似ても似つかない変なヨダレっ花咲き乱れる緑地帯だったのですが、その見捨てられた緑地帯から対向車線にハナを突き出し転回し、些細なコトを置き去りにするようにアクセルを二度吹かせて先ほど通り過ぎた地点へ戻り、今度は舐り上げるようにその焼肉屋の看板を眺めたのですが、やはり確かに「タッチパネルでお肉が頼める!」と記してある。

「タッチパネルでお肉が頼める!」

およそ宣伝であるならば衆人の耳目を集め人を貫くモノであるべきだと思うのですが、「タッチパネルでお肉が頼める」事が、焼肉屋が己を宣伝するに力点を置くべき箇所であるとは到底思えない。何故、その焼肉屋は、タッチパネルでお肉が頼める事実をわざわざ広告を打ってまで知らしめようとしたのか?肉の量であれ質であれ、焼肉屋が誇るべき自店の誉れの第一が何故「タッチパネルでお肉が頼める!」であったのか?

久しぶりの更新でこんなコトを書きたくはないのですが、昔読んだいかがわしい雑誌にですね、ある娼婦のハナシが書いてあったんですね、娼婦。その娼婦はやたらと他の娼婦のことを褒めるそうなんですね。あそこの角の娼婦は若くて美しい、こちらの通りの娼婦もこれまた美しい。決して自分のことを良く言おうとしないらしい。そうなると人間不思議なものですね、みんなかえってその娼婦のことが気になるわけです。結果その娼婦には多くのお客が付くことになる、なんてハナシだったのですが。

僕はとっくに貫かれていたわけですね。「タッチパネルでお肉が頼める!」という、あの娼婦が採った「己を褒めないことで人を引きつける」というやり方と同じ方法で僕は身も心もその焼肉屋の虜になっていた訳です。

そして「タッチパネルでお肉が頼める!」事実は、もうひとつの意味と使命を帯びていると思うんですね。
タッチパネルでお肉を頼むことは、人間の終わりの過程を切り取ったモノ、人間の滅びの暗喩だと思うんです。

始めは自分で狩って自分で切って焼いて食ってたわけです。いつしか他人に狩って貰って切って貰って給仕して貰うようになり、今、タッチパネルで給仕の手間を減らそうとしている。次に僕らは何の手間を減らすのか?焼肉という船に乗って僕らは、一体どこを目指しているのか?

皿を省いて箸を省いて、タレを省いて、最後に僕らは「肉」を省くのだと思うんですね。僕らは焼肉において肉を食べる過程を捨ててしまう。こうして人は、生きる過程を省いて、除いて、やがて滅びてしまうのです。

僕らがやがて死に向かう事実はタッチパネルでお肉を頼む行為の先に記してあると思うのです。(ちなみにその焼肉屋さんには行ってません)
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もうひとつのエヴァンゲリヲン
2013-05-13 Mon 20:54
クルマを運転される方なら、道路の真ん中で動かなくなっちゃったクルマってのを一度は見たことがあるんじゃないかと思うんですが。先日のこと、出勤途中の僕のクルマのエンジンが突然ストトンッつって止まりましてね。いつか見た迷惑な渋滞がその日は僕を以って惹起されたのです。前も後ろも荒くれ武者のような御仁に囲まれ、鳴り止まぬクラクションを朝方振り出した雷雨が窓ガラスを叩く雨音のように聞きながら僕は、あれは一種の逃避行動なのですかね?ふと、こんなことを考えたんです。

「あ、あの人どっかで見たことがある・・・!」なんてシーンは誰にでもあると思うんです。僕もそんな経験をすることがあるのですが、その、どこかで見た対象である人物が悉く「オッサン」なんですね。人に寄って対象は「少女」であったり「青年」であったりする対象が僕の場合「あっ!あのオッサン、どっかで見たことがある・・・!」となってる訳ですね。

この事実を、何故オッサンであったのかという由を冷静に紡ぎだすとして、「僕の廻りがオッサンで満ち満ちているから」とするのは少し乱暴な解釈だと思ったんですね。僕が水族館の職員だとしましょうよ。僕が、こう、イワシを餌にイルカに芸をさせるような立場の人間だったとしましょうよ。で、そんな立場にあって僕が見るデジャヴは「あ・・・!あのイルカどっかで見たイルカに似てる・・・!」なんて思うでしょうか?対象に触れる密度の濃さでそれは判じられるべきではないと思うんですね。

「オッサンのスタンダードが、僕の中で形成されようとしている」
これがオッサンだ!というユニバーサルでコズミックな基準が、僕の中で形づくられ始めているんだと思うんですね。仮にそれを、僕の中で産声をあげつつあるオッサンをアダムとしましょうよ。そのアダムを以って僕らは、例え相手が火星人であろうとも原始人であろうとも、オッサンというものを説明することができる。そんなオッサンが僕の中で実体化しつつある、アダムはどのオッサンにも似ているし、どのオッサンとも似ていない。僕はどこかで見たオッサンにアダムを重ねて既視を感じているのだと思うのです。

万雷のクラクションの中僕は更に考える。まだ幼いアダムが本当に実体化するとして、生きとし生ける全てのオッサン達は一旦、カラダやセイシンを囲う枠を無くして、どろどろになって混ざり合いオッサンより一段階高次の存在に再形成されると思うんですね。それがアダム。オッサンである全てを備えた存在。

「ああ、エヴァンゲリヲンって、確かこんなハナシだったよなぁ」なんて思ってりして
「一旦、どろどろの液体になるんだったよな」なんて考えて
「動け!動け!動いてよ!!」つって、僕の社用車は暴走しなかったわけですが。
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re-connect
2013-03-13 Wed 22:14
以前、近所にある温泉のサウナでオッサンさん達からさんざん辱められたってハナシをしたと思うんですが、性懲りも無くまた行ってきたんですね、あの魔窟に。日曜夕方のあのメロウな時間に魔窟備え付けのテレビで大喜利を眺め、木久扇演じる片岡千恵蔵のモノマネで堪え切れず笑う僕は廻りを取り囲むオッサン達に極太のお注射を・・・ってのが前回のハナシなんですが、今回はちと違ってまして。サウナのドアをパカリと開ければそこに、わざわざその時間帯を狙って行った訳です、笑点が流れてると思うじゃないですか?でも、テレビで流れてたのが「マギ」ていうアニメだったんですよね。サウナ側まさかのミス・チョイス。ターバンを巻いたキッズ達が妖怪と戦うアニメをサウナで汗だくのオッサン達が総勢で眺めてるってのは、壮観なんですね、壮観。ジョジョの奇妙な冒険の、あれは何部になるのかな?ワムウとジョセフが戦うくだりでワムウを破ったジョセフがワムウに対して採った行動は「敬礼」だったんですね、敬礼。汗だく列島のオッサン達を俯瞰し、なぜかそのことを思い出したんです。あの魔窟で汗だく、まんじりともせず「マギ」を眺めるオッサン達に僕は敬礼をしなけらばならない、そう感じたんです。

近くにあるホームセンターに行ったんですね。人は、当初から明確な目的をもってホームセンターに行くべきではないと僕は思っているんです。目的は着いた後からやって来る。ホームセンターってのは、そうですね、店内を端から端までねぶり上げるように見て回り、例えばそこのホームセンター一帯でゾンビが発生したら?何を武器にして戦う?などと自問し、脳内でヒロイックファンタジーを巡らせながらああ、そう言えばあそこの電球が切れかかっていたなどと思い出し、電球一個を買って帰るような、多次多元的な愉しみの受け皿であるべきだと思うんです。まぁ、先日40歳にもなったような人間の書くべきハナシではないんですが。で、そんなこんなで店内を回っていましたら、天使のオブジェというヤツが陳列してあるのを発見したんですね。でも、そのオブジェってのが、ちょっと写真を見て欲しいんですが。

angel with carp
鯉を担いでるんですね。鯉。
ここで天使が担ぐべきなのは、例えば「水瓶」とか「花束」とか、そんな感じのヤツじゃないかと思ったんですね。でも、そのホムセンの片隅でちんまり売られていた天使が担いでいたのはまさかの淡水魚だったのです。

サウネで「マギ」を眺めていた汗だくのオッサン達と、鯉を担いだ天使のオブジェは、同じ意味を持つんだと思うんですね。交わることの無い直線を進んでいた2つの事象は、場末のサウナで、萎びたホームセンターで交わったのです。

平和を成さしめるのは対話であり、交流であり、相互理解であり、「   」であり・・・。カギカッコの中には似たような、もっともらしい言葉がいくらでも入っていくのでしょう。それ程に、書き込む言葉に困らないほどに平和になる為の方策はやり尽くされて、それでも平和な世界など成就できそうな気配も無いのは、僕らはとんでもない勘違いをしているからだといえないでしょうか?権力者同士が握手しながらナイフを突きつけあうのではなくもっと、繋がるハズがない、誰も予想だにしない、それが無理なのかどうかさえも判然としない二者が交わって初めて、人々は安寧の道へ一歩近づくのだと言えないでしょうか?

僕らは、繋がれて絡まった家電のコードを繋ぎ直すように、一度全部外してみて、また繋ぎ直してみる必要がある、そんなことを考えるんです。
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コトバ、オドル(ヨーグルトセンキ)
2013-02-01 Fri 21:27
"この乳酸菌は、腸に届くために死ななければならなかった"

3パック100円程度の安いヨーグルトを食べている時に思いついたもの。よくヨーグルトを摂るのだが、多くの容器には「生きて腸まで届く」ことが謳い文句として記してある。だが、僕が食べていた安ヨーグルトにはその謳い文句が記してない。ヨーグルト内の乳酸菌事情には疎いのだが「このヨーグルトの中の乳酸菌は死んで腸まで届きます」とは流石に書き辛かろう。だが、もしもその死を帯びたマイナーヨーグルト達が、生命渦巻くメジャーヨーグルト達に乾坤一擲の大勝負を挑まなくてはならなくなったとしたら?僕は彼らマイナーヨーグルトの容器にどんな言葉を記してあげることが出来るのだろうか?
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魚座の終わりとカップヌードルおにぎり、経る必要がある過程について
2013-01-02 Wed 20:49
「入」って漢字と「人」って漢字は、PCで打つ分には間違えないんですが、手で書いてみると「あれ?どっちがどっちだったけ?」となるのは、僕だけなんですかね?日毎にデスクで淀み無く「人間風車」としたためる彼女、夜毎便箋に恋々と「入艶式」と綴る彼。うまく、間違えることなく書けているのかしら?

漢字が書けなくなるのはPCを使う機会が増えたから、なんてハナシをよく聞くんですが、僕の場合の「入」と「人」はそんなぽっと出の交際2週間なんかじゃなくって。あの、魚座の終わりあたりからの仇敵なんですね。「入」と「人」を学んだあたりからとんと間違え続けている。

もちろん僕も、なすすべなく「入」と「人」を間違え続けている訳ではなくて。彼らを間違えることなく記す為のちゃんとした解決法を持っているのです。その解決方法ってのは"「疑」という漢字をアタマの中で書く"というものなんですが。

僕は「疑」という漢字を「ヒヤマフトヒト」という人名として覚えているんです。まぁ語呂は悪いんですが、檜山太人(36)。
僕は疑という字を"左上に「ヒ」、左下に「矢(ヤ)」、右上に「マ」、マのすぐ下に「フ」、フの真下に「ト」、トのすぐ下に「人(ヒト)」という具合に覚えているんです。この覚えの順序において僕は「人」という漢字を正しく書くことが出きるんですね。「ト」の下に「入」って書き辛いものなんですよ。

だらだらとこんなハナシを続けて恐縮で、もういっそのこと人間風車、人間風車サルマン・ハシミコフの件あたりから読んで頂かなくて結構なんですがとにかく僕は「入」や「人」という漢字を書く場合「一度アタマの中で"疑"という漢字を書いてみて、ヒヤマフトヒトという過程を経て、どっちがどっちか判断している」んです。こんなんですから今日も僕は「納入業者」と書くにあたって砂時計をクルクル回しながらnow-loading・・・、書くのに手間取りまくってるのです。

僕が担当する顧客に食料品の卸売り業者さんがあるんですね。冷凍食品などをスーパー等に卸す業者さんなんですが、そのお客さんを訪問した際、「カップヌードルおにぎり」という商品についての販促資料があったんですね。その販促資料を、お客さんの机上から無言でヌルリと掴み取り「・・・カップヌードルおにぎり」と呟いて僕は"なにか、ひと手間多いな"と思ったんです。なぜ、一度カップヌードルの過程を経てそれからおにぎりにしなければいけなかったのか?別の商品名で一直線に"おにぎり"にしなかったのは、何故なのか?

「経なければならない過程」なんですよね。
カップヌードルという人気商品がおにぎりになった、というのがそのおにぎりの大きな売りな訳です。一度カップヌードルという過程を、実は抜きにして名は経る必要がある。それでこそ売れる商品になる、ただ単に「おいしいおにぎり」だったら逆に売れるのに時間が掛かるのです。

僕が「納入業者」という文言を記す時に頭の中で「疑」という字を一旦書くように、カップヌードルおにぎりが一旦カップヌードルという過程を名目上通るコトのように。この世には「経なければならない過程」というモノが少なからず存在すると思うんです。時間を数直線で描くことが出来たとして、その数直線上には非合理な迂回の経路が組み込まれている、その数直線は合理的な最短距離であるべきなのに、何故か曲がったり、うねったり、クルリと一回転したりしている、僕らは少なからず経なければならない過程を経る必要がある。

今年は僕にとって、皆さんにとってどんな年になるでしょう?
うまくいくよ、希望の多い年になるよと言ってくれる人は多いでしょうから、僕からはうまくいかなかった時の為の無駄話。

"その失敗や、挫折、悲しみや苦しみ、非合理や矛盾、自己嫌悪にねたみや謗り、僕らはそれを「経る必要がある"
経なけらばならなかった理由は辛い過程の先に書いてある、そう考えてやっていきましょう。あけましておめでとうございます。
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